人前に立つの最近のブログ記事

社長の風格

| コメント(54) | トラックバック(0)
会社の向かい側の席に座っているY先輩は、元社長。
普段はのほほんとしている人で、
うーんよくわかんない人だなぁ、と思っていたんだけど。

こないだ、ASPの調査やヒアリングを一緒にしていて
営業さんを呼んで名刺交換をした時のこと。

Y先輩:「よろしくお願いします!!!」

あ、これか、と。


(なぜか)たっぷりの自信と、(なぜか)知っているたくさんの知識。
知らない分野の話なのに、
「お詳しいですね」
と先方に言わせる自信のある話し方。
横にいてて安心出来るこの態度、風格。
これが社長なのかも知れない、と思った。


「お前は自信過剰だ」
と言われて育って十数年。いつの間にかそれも言われなくなりました。
言ってくれる人が、いなくなったから?
でもね、それ以上に自分の自信が無くなったからだと思う。
まだまだ知らないことがたくさんあるし、
普段の生活でももっと出来ることがあるし、
友達と遊んでいても、振り返るともっともっと楽しく有意義に過ごせたんじゃないかって思うし。

でも、いま必要なのは自分のための自信ではなく他人のための自信だ。
人が、安心して傍にいられる人間ってどういう人なんだろう。
何があれば、その人に付いていこうと思えるんだろうか。

今の環境で学びたいことが、また一つ増えた。

卒論発表

| コメント(109) | トラックバック(0)

お,終わった・・
何はともあれ終わった.

ここらで認めておきたいのですが,
俺は別に前に立って話すのが得意なわけじゃないと.
人並みか,人並み以上に不安も感じれば焦りもするわけでして.
それでも「出来る」とか「好き」とか思うのは,
例によって自己暗示をかけて,ちゃんと出来ればいいなと思うから.

そのうち暗示をかけなくても本当にそうなっていければ
きっと自分が成長してる事を大いに感じられるでしょう.
そうなるように,いっぱい知識を蓄えて,経験を積んでいければいいかな.
今日の発表会も,その1つとして.


今日は発表の合間にスーツのままSちゃんに会って来た.
なんかいつもと違うかっこって言うのだけで恥ずかしい.
これはもう軽いコスプレやね.
スーツが俺の制服になるのは,あと何年後かなぁ.


夜,研究室の打ち上げ.
講師の先生と別の大学に進学されたM2の先輩に
俺が春からお世話になる研究室の人を紹介してもらえました.
ありがとうございます.
お2人曰く,この世界は狭い,と.
今の研究室の教授先生と,
向こうの研究室の先生も実は深い関わりがあるらしいし.
よく見たら今の研究室に,
向こうの研究室の名前が書いた備品もあったような無かったような.
狭い世界だろうが広い世界だろうが,
色んな人に会って,会った人の数だけ自分も成長していきたいと.
色んなマイナスがあるにも関わらず,春からは向こうへ行くんだもの.
それに見合ったものを得ないとね.後悔しないように.


打ち上げ2次会?
AリーグとBリーグに分かれて麻雀大会.
ドクターの先輩はやっぱ強い.敬います.
そしてぺちょが優勝.やっぱギャンブル強い・・さすが.


家に帰ってそのまま爆睡.
次に起きるのは何時かなぁ.
今日はとにかく寝よ・・

話し方とか振舞い方次第で
人に与える印象と言うのはずいぶん変わるなぁと思います.
たとえ内容をそれほど理解してなくても,
堂々と前を向いて声を張って喋れば
それなりによく聞こえるわけで.
聞こえ易く話されると「ああ,なるほど」って思っちゃいます.
(お前発表してる内容理解してないだろ,とか言いたいんじゃないよ.)

逆に一生懸命研究してるはずなのに,
ちょっと自信なさげに言いよどんだりしちゃうと
どうしても見劣りしてしまいます.
「この内容ほんとに合ってんのかなあ?」って思っちゃう.

こないだの選挙でも同じような事があるなと.
例えば小泉首相はすっごく演説がうまいと思います.
うまい,と言うかTVに出てるとつい見てしまう.
わざとオーバーな表現にしてみたり,
動きも激しくしてみたり,
ああ,髪型もそうなんですけれど.
見たい,聞きたい,と思わせるものがあります.
岡田代表の演説なんか見てると,
そういう意味では退屈だなぁ,と.

別に政治についてどうこう言うつもりはありません.
ただ見た目とか表現とか,演説の仕方で
党の印象さえも変わってしまってるなと思います.
もちろんそんな小手先の技術に騙されて
よく考えずに投票するのは愚かだと思うのですけれど.
言いたいのは,人前に立って話をする上で,
小泉首相に見習うべきところはいっぱいあるんじゃないかなと,
そういうことだけ.

主張したいことがあるのならば,
それをちゃんと聞いてもらうための手段についてもよく考えるべき.
何を聞いて欲しいのか,どういう風に受け取って欲しいのか,
それをよく考えるべき.
そう思います.
だってほんとに自分が聞いて欲しいことなんだものね.
そのための努力は惜しまないでやっていきたいな.

前で話すという権利

| コメント(242) | トラックバック(1)

いっちーのところに,
 人前で話すことは人のため
と言うような話がありました.
なるほど,そういう側面も確かにあるのですよね.

例えばいっちーのように主将なんてやってると,
部全体の総意をどこかに伝えたり,後輩を指揮したり,
と言う事も多そうです.
そういう事は,主将になら出来ること,と言うよりはむしろ
主将にしか出来ないこと,と言った方が良いのかな.

部の総意をまとめて適切に他に伝えることが主将にしか出来ないとしたら,
それは主将の義務と言えるかも知れない.
前で話す権利を与えられたものに課せられた義務.
義務ってあんまりいい言葉じゃないので,「すべき事」とでもします.

この事は以前から結構考えてる事ですが,
自分にしか出来ない事なのであれば,
それは自分がしなければならないんじゃないか.
組織の都合上,人前に立つ立場じゃないと出来ない事
(出来ない,形として成り立たない,やった方が収まりが言いというか)
と言うのは確かにあると思うのです.
集団に属している以上,
立場に課せられた「すべき事」はあると思うのですね.
(「いじられキャラ」なら「いじられる」べき!というようなこと.)

それでね,その「すべき事」が自分の「したい事」と一致すれば
とても気分良く何だって出来ると思うんです.
前に立って話をしたい,誰かのために,何て言うとおこがましいですが
みんなの総意を自分の言葉で人に伝えたい,
自分の力で後輩を指導したい,
なんて思えば,その人はきっと主将に向いてるし,
なったら良いと思います.

自分のやりたい,向いている立場を見つけて,それをやる.
と言うのがどんなコミュニティにおいてでも,
うまくやっていける方法なのでは無いかなぁ,と思います.
人前に立つ立場,って言うのはその1つに過ぎません.
でも俺もやっぱりそういうのが好き.
だからそれをいっぱいやってけたらなぁ,って思います.
自己顕示欲が旺盛ですね.ほんと.

でも権利が与えられているのはとても嬉しいし,
それを最大限使っていけたらなと,思います.
こんな事言って,それが出来てるのかと言えば,耳が痛いですね.

人の前に立って話すことが,今はとても好きです.

でも昔は,小学校くらいの時はそういうの嫌で嫌でしょうがなかったんです.
先生に当てられても下を向いて黙ってるような子でしたから.これでも.

中学校1年の時に仲の良かったなんちゃん(今は同じ大学の医学部にいます)
がクラス委員に立候補して,それに対抗して俺も出て,
確か「まじめそうだから」と言う理由で票を集めて俺が選ばれたんです.
ほら,当時はまじめそうって人に言われてたんですから.これでも.

それで会議みたいなの(生徒会の会議なんて,今考えればおままごと的ですが)
に出席するたび,毎回1つずつ「生徒会のここがダメ」とか言ったりして.
人前で話したくて仕方なかったんですよね.
挙手するたびに「うわ,またあの人なんか言いたそう」的な
空気になるのが楽しくて仕方なかったんですよね.
単に人目を引きたかったのかも知れない.
だから中学2年の時にクラスのうるさいやつに投票で負けた時は,
ものすごく悔しかった.

高専に入ってもまた「委員長」をやらせてもらいました.
高専の時は割とその名で呼ばれてて,何人かは今でもそう呼んでくれたりします.
中学校の時までは割と「前で話をしたい」だけだったんですが,
高専では「自分の考えを聞いて欲しい」と思うようになってました.
そういう機会がとにかく得たくて,
部長とか会長とか,何でもいいからやりたかったんです.
「人前で話す」と言う機会がとにかく欲しかったんです.
おかげで機会にも多く恵まれて,
「人前で話すことが好き」と自分で思えるようになりました.

それで,
今の自分にとって人前で話すと言う事はどういう意味を持ってるのかなぁ,
と言うことを考えてたんですけれど,
やっぱりそれは「自己表現」なんだと思います.

人と話して意見を交換したり考えを共有したりするのが好きな自分ですから,
それを一度に多くの人に対して行えると言う,
人前に立つと言う事の持つ意味は大きいです.
一対一で話すのはもちろん好きですが,
一度話すだけで色んな人にいっぺんに聞いてもらえる機会なんてそうは無いですから.
だからその機会を有効に使うために,
人前に立つ機会に際しては準備もいっぱいするし,
いざその時になればいかにうまく伝えられるかと言うことをよく考えます.
回を重ねるたびに,
多くのことをより上手に伝えられるようになったらとても素敵だなぁ,
と思います.

blogなんかに文章を書く,と言う事は
そういう意味で「全世界の人の前に立つ」と言うことなのかも.
そう考えたら文章の表現も考えるし,
いかに伝えたいことが伝わっているかって言うのも気になりますね.

多くの人と色んなものを共有,交換していくために
そういう場はこれからも多く経験したいし,楽しんでいきたいと思います.

国王学

| コメント(260) | トラックバック(0)

国王学.

人は1.6^0, ^1, ^2に分類されるという話です.
これは俺が高専の時,奈良先端大のベンチャーワークショップで聞いた
「人罪,人材,人財」の話ととっても似てる気がしました.
1.6^0 = 1の仕事しかしない人(罪),言われたこともできない人.
1.6^1 = 1.6の仕事をする人(材),言われたことは言われた通りにやる人.
1.6^2 = 2.56の仕事ができる人(財),言われなくてもやれる人.
出来ることなら,みんなが1.6^2になって欲しいよねっていうお話です.

あくまである集団において,
どんなスタンスで仕事に取り組むかということなのですけど.
もしその集団にそれほど重きを置いていない人なのであれば,
1.6^1よりも上の人であることは望めなさそうです.
もちろん,ぜひそうあって欲しいと自分が思う人に対しては
重きを置くように,1.6^2となるように働きかけもするでしょうね.


今日の講義,「国王学」と言いましたけど,つまるところは「リーダー論」でした.
上に立つ(という言い方には語弊があるかも知れませんけど)人に必要なものとは何か.
俺は,ビジョン,行動力,カリスマは絶対必要だと思います.
(カリスマという単語が国王はお気に召さなかったようですが)

人を引っ張ろうと思うと,まず「自分が何をしたいのか」を明確に持つ必要があります.
例えばそれが集団,組織であった場合,
自分はその組織で何をしようとしているのか,何を目的としているのか
をはっきりとさせ,それを周知することが必要でしょう.
何をしたいのか分からないと,当然他の人は何をしたらいいのかわからない.
(1.6^2の人が他にいるのなら,その人がビジョンを持つのでしょうけど)
他の人だけでなく,もちろん自分がそれから何をしたらいいのかもわかりません.

「2代目」が失敗しやすいのはここにある気がします.
「自分が何をしたい」のではなくて,
「初代が何をしたかった」とか,「組織を維持する」とか,
そういうことを自分のビジョンの代わりに持ってしまうから.
自信があるのなら,それでも構わないと思います.
ただ初代ほどの行動力とカリスマを持っている2代目というのはそういないのではないでしょうか.
(志願して2代目となる,1.6^2の人であればその可能性もあるのかな)
自分で何かを興して,維持して,繋げていくというのは並大抵の努力では無いと思います.

だとすると(初代に行動力とカリスマで敵わないとすれば),
ビジョンとして,自分は必ず異なるものを持つべきだと思います.
でないと,比較された場合にどうしても見劣りしてしまいます.
ビジョンのベクトルの向きを変えることで,それも防ぐことが出来ます.
自分のビジョンを持てば,それは行動力に反映されるはずです.
モチベーションが違うでしょうからね.


行動力,これもまた必要です.
ビジョンを持つのはいいとして,それをいかに実現するか.
ちなみに高専会における俺には,明らかに行動力が足りてません.
(全国の高専会のネットワークを作りたいとか,もっと上下での情報共有を円滑にしたいとか,
ビジョンはあるのですが)

行動力が伴わなければ,ビジョンは絵に描いた餅です.
英語で言うと「Wine in the bottle does not quench thirst」だそうです.
理想ばっかり描いたところで,実現できなければ意味がありません.
特に他の人に対しては,その理念が伝わることさえもありません.
描いたからにはそれを実現しなければ.
そのための力が行動力でありましょう.

ただこれに関しては,他の事による影響を受けてしまいます.
実際の時間なり手間なりを必要とするため,
どうしても優先順位が付いてしまうのですね.
順位で負けてしまえば,それは行動に移されず,実現することも無いでしょう.
ビジョンを持った上で,それに関する優先順位が最上位に来た時,
行動力となって発現するのだと思います.


最後,カリスマの話です.
カリスマって言うと「カリスマ美容師」とかって言葉も流行ったので
どうにも軽く考えられがちなのでしょうか.
goo国語辞典によると,以下の通り.

(1)超自然的・超人間的・非日常的な資質・能力。預言者・英雄などにみられる。
M=ウェーバーは,このような資質をもつ指導者に対し人々が人格的に帰依する関係を
カリスマ的支配と呼び,伝統的支配・合法的支配に対する支配類型の一概念とした。
(2)転じて,一般大衆を魅了するような資質・技能をもった人気者を俗にいう語。

別に他の言葉で言っても構わないのですけど.
求心力とか,魅力とか,統率力とか,もっと言えば人気でもいいかも.
俺が使ってるのは上の(2)の意味ですね.

組織が一人なら,別にこんなものはいりません.
自分は自分の意思に従いますからね.
でも二人以上になると,いかにして人をその気にさせるか.
言うなれば1.6^2の人とせしめるか,自分のビジョンに共感してもらうか,
が重要なポイントになると思います.
その人たちが自分にとって,自分の組織のビジョンにとって必要な人たちであるのなら.

要素には色々考えられます.
話術,性格,色んなものに対する考え方.
年齢とか家柄,ルックスなんていうのも当てはまるかもしれませんね.
上に書いたビジョンもそうかも知れません.
結局は天性のものが大きいのかも.
途中で変わろうと思っても,変えられないものも多いでしょうから.

人に慕われる,人を惹きつけられる人っていうのは,少なからずこういうのを持ってそうです.

責任ある立場に立って権力を持つ人にあるのは,
それを行使する権利では無く,義務なんじゃないかと思いました.
何人もの人の中から選ばれてその立場に立ったのなら,
そこでしか出来ない権力の行使があるはずです.
それを使わずに放置しとくのはもったいない,
と言うよりもむしろ,それを使えない他の人に対してどう言い訳するんだと.

「君には君にならできる、君にしかできないことがあるはずだ。」
と言ったのはエヴァンゲリオンに出てくる加持リョウジですが,
自分しか持ち得ない力を使うのは,むしろ当然のこと,なのだと,思うのですね.
やりがいを感じられるとしたら,こういうところなのかも.

「自分にしかできないことをやった」
って思えたらきっと,それはそれは有意義なこと.
もう自己満足の極致でしょう.
人間は自己満足のために生きてるんだから,
自分にだけ与えられた力や権利を最大限に行使して,
その結果に満足できるようにすれば,きっといい明日,大阪ガス.違うか.

今日の結論.
楽しく生きたい→大いに自己満足したい→自分にしか出来ないことをやる.
ということでいいでしょう.

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.02

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち人前に立つカテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリはネットの話です。

次のカテゴリは店の人です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。